笹沼先生 靴投げ事件意見書

意見書

 

2015年10月27日

 

静岡大学教授(憲法学専攻)

笹  沼  弘  志

 

はじめに

本意見書は、被告代理人らの依頼に基づき、被告人が参議院議場内に自らが履いていた靴を投げ入れた行為の適法性を、日本国憲法の国民主権原理、議会制、および請願権の観点から検討するものである。

1.国会における代表者と国民

 

日本国憲法は次の一文から始まる。

 

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

 

すなわち、主権を確保した日本国民は行動する。何のために日本国民は行動するのか。わが国全土にわたって自由、人権を保障すること、また「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことを目的として、日本国民は行動する。どのような方法で行動するのか。「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」する。

日本国民が人権を保障し、戦争の惨禍が起こらないように行動するためには、「正当に選挙された国会における代表者」を通じる必要がある。国会は、主権者国民が行動するために日本国憲法が創設した手段である。この国会が正常に機能しない場合、主権者国民は行動することができない。つまり、人権を保障し、戦争の惨禍が起こらないようにするための行動ができないこととなる。国会の機能不全は、わが国全土において人権を保障することと、戦争の惨禍を起こさないことを不可能または困難に陥らせることとなる。これは、主権者国民を構成すると同時に、人権の主体である個々の国民にとって死活的な重大事であるというべきものである。したがって、国民個人は国会を正常に機能させることに常に重大な関心を有せざるをえない。

国会が機能不全に陥りながら、自らその機能を回復し得ないとき、国民個人は座視しているべきなのであろうか。ジョン・ロックの政府解体論によれば、主権者国民は機能不全に陥った統治機構を排除し、新たな統治機構を設置することも可能である。これが抵抗権と称されているものである。かような抵抗権の行使に至らずとも、国会の機能不全という事態を前にして、国民は主権者の地位にある者としても、人権主体としても、「国会における代表者」に呼びかけ、その機能を回復させるために最大限の努力を行うべきであろう。

国会がその職務を忘れ、審議を怠り、機能不全の状態にあるとき、国民個人にはいかなる方法があろうか。その一つは日本国憲法21条が保障する一切の表現の自由である。そしてもう一つ、日本国憲法は、直接的に国会における代表者に呼びかけ応答を求める権利として請願権を保障している。そこで以下、議会制の本質と議会の公開の意義、請願権の観点から本件被告の行為の違法性を検討する。

 

2.議会政の本質——自由な討論と公開制

 

(1)自由な討論

「自由は議会制によってのみ保障されている」。わが国全土にわたって自由の恵沢を確保するためには、議会制が必須である。議会制の大原則は公開の討論である。「議会主義の絶対的に典型的な代表者」と呼ばれるフランスのギゾーは議会主義の構成要素を、自由な討論と公開性、出版の自由だとした。このギゾーの議論を参照しつつ、現代自由主義憲法学に圧倒的な影響を及ぼしているカール・シュミットは、「討論と公開性」こそが「議会という制度がその精神的基礎」を置く原理であると論じた。現代日本における立憲主義憲法学を代表する樋口陽一は、討論と公開性、出版の自由という三つの要素は今なお「議会制民主主義の骨格をなすもの」だという。それは、「議会での自由な討論が公開され、表現の自由の保障のもとで、国民の批判にさらされることによって、多元的な利害と価値を反映した審議が可能となり、そのことによって、そのときどきの議会少数派(野党)も、その時点での表決では敗れても、国会審議の場で、さまざまな争点を提起することを通じて、つぎの選挙の機会に、有権者の支持を得ることを期待できる、というところに、現代議会制民主主義の図式が成り立つからである」。

国会における代表者は、公開された自由な討論を通じて国民の総意、一般意思を形成することによってはじめて主権者国民の代表者となり、主権者国民が行動することを可能とする。国会における代表者が、自由な討論をなし得ない場合、国民の総意を形成することはできず、国民の代表者としての機能を果たすことも不可能となる。

自由な討論により審議を尽くすことは議会制の本質的原理であり、生命である。審議の原理は、近代議会制を支える原理であり、「この原理は、議会の決定の妥当性に客観性をもたせるうえで、議会の構成員による自由な討議を尽くすことが寛容であるとする原理である」。国会が審議をなしえない機能麻痺状態に陥ることは、議会そのものの存立意義、生命を失うことに等しい。とすれば、主権者国民は人権を保障し、戦争の惨禍が起こることのないように行動することができなくなる。

ジョン・ロックは「社会にとって何が善であるかを討論する自由と、その討論を遂行する時間的余裕とをもたない限り、たとえ一定数の人びとがいても、否、たとえ彼らが集会を開いたとしても、そこには立法部が存在するということにはならない」、「立法部の自由を奪うか、適切な時期における立法部の活動を阻害するかする者は、事実上、立法部を奪い取り、統治に終止符を打つことになる」、つまり「統治の解体」がもたらされるという。その場合、人民は新たな統治機構、立法部を設立し直さねばならないこととなる。

このような統治の解体状態に陥る前に、立法部の自由な討論を維持し、支えるのが議会の公開の原則である。人民監視の下ではいくら暴君といえども露骨に暴力をふるうことはためらわれるものである。

 

(2)公開の原則

憲法57条の公開の原則は、自由な討論を通じた国民の一般意思の形成という議会の本質的機能から要請されるものである。「構成的原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、統治制度とその活動のあり方を普段に監視し問うことを可能にする“公開討論の場”が国民の間に確保されることを要請する」。また、「議事(会議)の公開の原則は、国民に選挙に際しての判断資料を提供し、国民の『知る権利』に応え、国民と議会とを結びつけるという機能を果たすとともに、議会の決定の妥当性を側面から担保するという機能を有する」。

しかし、国会における傍聴は、単なる知る権利に応えるのみならず、「統治制度とその活動のあり方を普段に監視し問うことを可能にする」という参政権に基礎を置くものというべきであって、これは公開の自由な討論という議会の本質的機能と表裏一体、不可分のものである。国民の傍聴なくして自由な公開の討論はなり立ち得ない。これは自明のことである。

ところで、国会が自由な討論をなしえず、その本質的機能を麻痺させている状況を目の当たりにしている場合、国会を傍聴している国民は、ただ傍観している以外にないのであろうか。もし、議員が議会の本質である自由な討論を行わないのであれば、傍聴人たる国民は何等かの方法をもって「その活動のあり方を普段に監視し問う」ための行動をとるべきであろう。はたしてそれにはいかなる方法があるのか。それは選挙なり、あるいは街頭でのデモなど表現などであるかもしれないが、それに限られるものではない。その他の方法の一つが前述の通り請願である。

議会のあり方を普段に監視し問うための、より一般的な方法は、表現の自由の行使であろう。そのためには、国会の外で、多数の国民がデモやビラ配りなどの宣伝活動に長い時間をかけて取り組む必要がある。しかし、これらは議会に対して間接的、限定的な影響のみ及ぼしうるものに過ぎない。確実に議院そのものの機能を変えていく方法として選挙がある。しかし、これは選挙時期によっては2、3年以上の長期の時間を有することが通常であって、時間的猶予がない緊急の事態には対応しがたい。

例えば議場が火事になり、議員が危機に瀕しているとき、傍聴人は率先して救済するか、その援助を行うはずであろう。だとすれば、現に議院が喧騒状態にあり、自由な討論による審議機能を失っている緊急事態において、国民にはいかなる方法が残されているのだろうか。憲法が許す手段はなんであろうか。唯一、日本国憲法が許容しているものは、請願権の行使であるように思われる。

 

3.請願する権利

請願する権利について、憲法16条は、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と定めている。

「請願の本質」とは何か。清宮四郎は「国民および国家機関の認識を深め、国家機関が間違った行動にでるのを防」ぐことであると端的に述べている。国家機関、例えば国権の最高機関である国会が間違った行動にでるのを防ぐことこそ、請願権の本質的機能であろう。「国会における代表者」が正常に機能しなければ、主権者国民は人権保障のために行動することができない。とすれば、国家そのものの存立意義自体が失われてしまう。そのとき、国民は「国会における代表者」に正常な機能を回復させるために、請願権を活用すべきであろう。

国会における代表を選出し、あるいは変え、議会の機能そのものを積極的に構成する役割を果たすのは前述の通り選挙である。しかし、選挙権は成人の国民に限定されている。未成年者や受刑者、住居喪失者には選挙をなす資格が与えられていない。しかし、彼らであっても、また外国人であっても日本国の統治下にある限り、国会に対して請願をなしうる。したがって、主権者国民が全土にわたってすべての人の自由・人権を保障するために行動する手段としての国会の機能を限界ぎりぎりの地点で支える役割を請願が果たしていると言えよう。だからこそ、「国政全般の徹底的民主化に伴って、・・・請願権の行使に付いてのやかましい制限が撤廃され、誰でも簡易な手続のものに手軽に行いうるようになった」のである。

請願の方法については、請願法1条が「請願については、別に法律の定める場合を除いては、この法律の定めるところによる」と定めている。国会の各議院に対する請願については、特別に国会法79条が「各議院に請願しようとする者は、議員の紹介により請願書を提出しなければならない。」と定めており、同法41条 が「常任委員会は、その部門に属する議案(決議案を含む。)、請願等を審査する」、そして同法80条が「請願は、各議院において委員会の審査を経た後これを議決する」(1項)。「委員会において、議院の会議に付するを要しないと決定した請願は、これを会議に付さない。但し、議員二十人以上の要求があるものは、これを会議に付さなければならない。」(2項)と定めている。

さらに、参議院については参議院規則が次のように定めている。

 

第162条 請願書は、請願者の氏名(法人の場合はその名称)及び住所(住所のない場合は居所)を記載したものでなければならない。

第163条 法人を除いては、総代の名義による請願は、これを受理しない。

第164条 請願書の用語は平穏なものでなければならない。また、その提出は平穏になされなければならない。

第165条 議長は、請願文書表を作り印刷して、毎週一回、これを各議員に配付する。

請願文書表には、請願の趣旨、請願者の住所氏名、紹介議員の氏名及び受理の年月日を記載する。

第166条 請願は、請願文書表の配付と同時に、議長が、これを適当の委員会に付託する。

しかし、これらの定めは議会が本来の機能を果たしている場合を前提として、議会が制定したものである。議会が機能不全に陥っている場合、その機能不全を是正するように議会に対して請願を行う手続について、国会法や両議院の規則は特段の定めを設けてはいない。これはある意味で当然のことであろう。しかし、それは議会の機能不全時においては、国民が憲法によって保障された請願を議会に対してなしえないということを意味しない。むしろ、そのような場合だからこそ、国民には国会の機能不全を是正すべく憲法上の権利としての請願権を活用することが求められるというべきである。国会の両議院が正常に機能していない場合、国民は直接憲法16条に依拠して積極的に請願をなすべきであるといえよう。改めて憲法16条を見てみれば、請願の目的については「損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項」であり、国会の機能不全に関する請願も当然含まれるものと解される。このとき、憲法16条よって請願について課される制限は唯一「平穏に」ということのみである。

「平穏に」という条件について、宮澤俊義は「請願を行うに際して、暴力を用いたり、暴力的威嚇を用いたりすることなく、の意である」と解している。具体的には、「大衆的なデモ行進を背景とする請願」も平穏なものとして許容すべきものと解されている。

「平穏に」という条件を逸脱したものについて、宮澤俊義は「その請願を提出された機関は、これを受理する義務がない」としている。しかし、行為目的が請願であり、請願行為であるといえる限り、なお「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」ものというべきであろう。

ところで、「平穏に」というのは、いかなる概念か。これは例えば「大衆的なデモ行進を背景とする請願」が「平穏」なものと解されているように、一定の幅があり、なおかつ相対的なものといえよう。デモというのは屋外、車輛が多数通行する路上で、ときとして店舗の宣伝や音楽などが流れる喧騒の中で行われるものであるから、大音量のスピーカーなどを使って行われることもある。これに対して静寂な官庁の屋内で求められる平穏さは全く別物であろう。つまり「平穏に」というのは相対的概念なのである。

現に静寂であって、静寂であらねばならないような機関、例えば図書館に対して請願を行う場合には、大声を出すことを慎まねばならないのは当然であろう。しかし、大きな騒音につつまれている公共事業の建設現場において、その騒音を止めるか低くして欲しいと求める請願については、事業を指揮する公務員に請願内容が正確に伝わるように一定の大きさの声を出すことが必要となる場合がある。これは、請願が呼びかけというコミュニケーションの一態様であるがゆえに有する当然の性質である。

コミュニケーションとしての呼びかけ行為について考えてみよう。例えば、財布を途に落とした通行人に財布を落としましたよと声で呼びかけても気づかずに急ぎ足で立ち去ろうとしているとき、財布を拾い、追いかけ、肩を叩いて呼びかけることが必要となることがある。声を掛けたが反応しなかったから放っておくということが道徳的により正しいということはできない。また、例えば学生が教授の研究室を訪ねたとき、軽くドアをノックしても教授が研究に没頭しているのかまったく反応しなかったならば、教授が気づいてくれるようにより強くノックをするであろう。それが礼儀に反するということはない。

請願は、国家機関等に対する呼びかけであるが故に、まず当該の国家機関等に請願している事実に気づいてもらう必要がある。そのために必要な一定の手段をとった場合、それは許容されるべきものである。憲法16条の「平穏」の程度も、このように「気づいてもらう」という必要性との比較で相対的に決まるものである。

16条はまた「平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と定めている。したがって、当然ながら「平穏に請願」を行ったことにより処罰されるべきではないのはいうまでもない。また、目的が請願であり、そのために必要な手段としてやむを得ずにとった方法について、刑事免責されるのも当然である。16条が定める「平穏」さは、請願のために必要やむを得ない手段を許容するというのは上述の通りである。ただ、主観的には必要やむを得ない手段であると思っていた場合であっても、客観的には過度の不合理なものであり、「平穏」なものでないという評価を受ける場合もあろう。しかし、憲法が「請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と強く請願行為を保護している趣旨を鑑みれば、当該請願がなされた状況において必要やむを得ない程度の「平穏」さを超えたものであっても、その程度に応じて違法性が阻却されるか、刑が減軽されるべきものである。

「いかなる差別待遇も受けない」ということは、単に処罰しないということだけではなく、請願を行うことにより政治的にも社会的にも、経済的にも、あらゆる部面で差別的な、不利な扱いを受けないということである。なぜこのように請願を手厚く保護しているのか。 それは請願権が参政権的意義を有しているだけでなく、外国人も含め、日本国の統治のあり方全般について統治下にあるすべての人びとの自由に関わるからである。統治に一方的に服従し、統治者に対して一切意見を述べることも、聞いてもらうこともできないのは奴隷状態に等しい。だからこそ、請願権に対して手厚い保護を行っているのである。これを考慮すれば、許容される「平穏」さはより広汎なものになると考えられる。請願目的であれば、暴力的な方法でなければ、一見平穏さを欠くかに見える態様であれ、平穏なものとして許容されるべきであるといえよう。

いかなる場合に平穏さを欠く、許容されない請願であるといいうるのか。その限界を明確に引くことは容易なことではないかも知れない。しかし、本件のように議場が喧騒状態にあった中で、一言声を上げ、靴を投げる行為については、平穏な請願の範疇に属するものというべきであろう。仮にこれが平穏の程度を一定程度超えたものであったとしても、処罰すべき甚だしく不穏当な行為であるとまでは言えないであろう。そこで次に、本件行為の評価について、本件行為が請願を目的としたものであったか、本件行為が平穏なものであったか否かに即して検討してみたい。

 

4.本件行為の評価と評価方法

1審東京地裁判決が認定している通り本件靴投げが行われる前に「既に場内が野次等によって騒然とした状況にあった」。つまり、参議院は靴投げが行われる前から、自由な討論を行うという自己の本来の機能を麻痺させた状態にあったわけである。そこで、被告人は「民主主義を守るために、私が国会に対して一石ならぬ一足を投じた」のだと本件行為の目的について証言している(被告人最終弁論7頁、なお3頁)。つまり、被告人は参議院に本来の討論、審議機能を回復させること目的として靴投げという方法を用いつつ請願を行ったということができる。本件の靴投げという行為は、参議院が国民の代表としての討論機能を失い喧騒状態に陥っていたからこそ、参議院本来の討論機能を回復させるべく行った請願である。

ところで、地裁判決は、被告人が靴を投げながら叫んだという本件行為を「抗議の意思を表明するための表現行為」であると認めながら、「表現の自由は、民主主義社会において特に重要な権利として尊重されなければならないが、憲法21条1項も、表現の自由を絶対無制約に保障したものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって、たとえ意見を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の権利等の他の法益を不当に侵害するようなものは許されない」と断じた。

これについては、以下の点から疑問がある。まず、本件靴投げ等の行為は単なる表現の自由ではなく、参議院に対して行われた請願であったと解されるべきである。したがって、表現の自由一般に対する制限を本件行為に課すことは不合理である。また表現の自由制約原理として「公共の福祉」が用いられているが、本件請願行為に対して「公共の福祉」による制約を課すことも不合理である。なぜなら、本件靴投げ等の行為は、むしろ既に毀損されていた「公共の福祉」を守り回復させることを目的としたものだからである。被告人は「民主主義を守るために」、「国会に対して一石ならぬ一足を投じた」のである。つまり、国会における代表者が自由な討論を通じた民主主義を実現することを要求することこそ、本件行為の目的だったのである。日本国民にとって最大の「公共の福祉」はわが国全土にわたって自由の恵沢をもたらし、戦争の惨禍が起こらないようにすること、それを実現するための行動をなす手段である「国会における代表者」の自由な討論を維持することである。地裁判決が述べる通り、「国会は国政を議論する国権の最高機関であって、その一院である参議院の議事の適正かつ円滑な運営が、十全に保護されるべき重要な公益」、すなわち「公共の福祉」であることはいうまでもない。

本件靴投げ行為は、日本国民にとっての最大の「公共の福祉」である「国会における代表者」の本来の自由な討論機能が失われているときに、それを回復させることを目的とした行為だったのである。被告人の行為によって「国会における代表者」の本来の討論機能という「公共の福祉」が毀損されたのではなく、既に参議院議員自らの行為によって傷つけられていた「公共の福祉」、すなわち参議院の自由な討論を回復させることこそ被告人の目的であったのである。被告人は、この「国会における代表者」の本来の討論機能という「公共の福祉」を回復させるべく、参議院議員等に対して本来の討論・審議機能を回復するように請願しただけである。

したがって、既に失われていた「公共の福祉」、参議院の自由な討論、議事の保護を理由に本件行為を制限し、非難するというのは転倒した論理である。本件行為こそ、「公共の福祉」すなわち参議院の自由な討論を守り回復させるものであったのである。

本件において被告人が行った行為、特定秘密保護法が議題とされている参議院本会議において、議場内に向けて自ら履いていた靴を投げ入れるという行為は、まさに自らに課された職責を忘れ機能不全状態にあった「国会における代表者」たちに対して、正気を取り戻させ、憲法によって課された自らの職責を思いださせて、言論の府たる国会の機能を回復させるために行った請願行為であって憲法16条によって保護されるものである。

ところで国会の代表者たる議員は、参議院においては、242人という多数の者によって構成されている。その参議院本会議において、多数の議員が怒号を飛ばし合い、混乱した喧噪状態にあったとき、その審議機能を回復させるためにいかなる請願方法が残されていたのであろうか。取り乱して混乱状態にある議員たちに対して、請願をなす方法は極めて限られたものであり、呼びかけるための必要最小限度の方法として被告人がやむを得ずとった方法が靴を投げるという行為である。

被告人がとった有形力の行使方法は、例えば道端で財布を落とした人を追いかけ肩を叩き、財布を落としましたよと声を掛ける行為、あるいは学生が教授と面会するために研究室のドアをノックするような行為と同様、必要最小限度の呼びかけの方法に過ぎず、「参議院の議事に携わっている参議院議員等の意思を制圧するに足りる勢力、すなわち、『威力』」といえるようなものではない。

参議院の議事を妨害するどころか、むしろ、参議院議員等は取り乱して議事に携わることができていなかった議員たちに対して、本来の職務に携わるように必要最小限度の方法によって呼びかけたに過ぎないのである。

ところで、国会が自由な討論による審議というその本来的機能を失い、混乱喧騒状態に陥っている場合に、「国会審議が正常なルールに基いて営まれないことについて憤激」して一定の有形力を行使した国会議員等の行為について、その動機の正当性を斟酌して無罪を下した事例としていわゆる国会乱闘事件1審東京地裁判決(1962年1月22日判例時報297号7頁)がある。

同判決は「民主制議会政治の基本的原則は国会における議案の審議が十分に論議を尽すことによってのみ運営されることにある」ことを前提とし、議院の自律権にも一定の限界があるとした上で、「多数党が数の力を頼りに有無を言わさず押し切ることの非」に対して実力をもって対抗した野党議員が公務執行妨害罪や傷害罪等に問われたこの事件において、「被告人らは国会審議が正常なルールに基いて営まれないことについて憤激こそすれ、本来これを決して妨害しようとしたものではなかつたことが明らかである。」、「国会の正常な運営、審議等を妨害せんとするが如きは議会政治を破壊するものとして到底これを容認できないけれども、本件における被告人らの行動はすべていささかも国会の正常な審議を妨害せんとする意図に出たものではない」ことを重視して無罪判決を下したのである。

本判決と本件との間には議員と単なる傍聴者という違いはあるが、本件被告人も「国会審議が正常なルールに基いて営まれないことについて憤激こそすれ、本来これを決して妨害しようとしたものではなかつた」のであり、むしろ「民主主義を守るため」すなわち国会にその正常な機能を取り戻させることを意図していたのは明らかである。

そのためとった手段は、自ら履いていた靴を投げるというものであって、靴を失う不利益を自ら引き受けるという自己犠牲的なものである。被告人は自己犠牲を払ってでも国会の機能を取り戻させようとしたのである。この行為の様態が、一定の有形力行使と評価されうる面があったとしても、前述のような研究室ドアのノックや肩たたきにも及ばない程度のものであり、犯罪構成要件を満たさないか、あるいは可罰的違法性を阻却されるものであるというべきである。

 

結論

本件行為は、主権者であり、かつ人権主体である被告人が、「国会における代表者」たる参議院議員等が討論を放棄し、審議機能喪失状態にあるのを目の当たりにして、参議院に本来の国民の代表としての審議機能を回復させることを目的として行った請願である。その目的は正当であって、その方法は憲法16条の定める平穏さの限度内のものであり、なんら非難されるべきものではない。

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